かばん関西歌会

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2017年 08月 01日

2017年7月歌会記

かばん関西 七月オンライン歌会記
             

【出席者】
雨宮司、新井蜜(塔)、有田里絵、戎居莉恵、黒路よしひろ(ゲスト)、河野瑤、佐藤元紀・塩谷風月(未來/レ・パピエ・シアンII【「II」はギリシャ数字の「2」】)、雀來豆(未來)、杉田抱僕(ゲスト)、足田久夢(かばん/玲瓏)、土井礼一郎、とみいえひろこ、ふらみらり、本田葵

今回は題詠の多彩なあそびはひとまず措いて、諸氏の自由詠にその作風を訪ねてみよう。足田と塩谷氏の歌は都合により今回掲載しない。
カラコロと氷とグラスキスをしてダンスしながら夜がはじまる  本田葵
あたかも作中主体が麗しきお相手と逢瀬を愉しんでいるような誤読を誘う、そこに作者の可愛い見栄がある(土井)本田氏は筆者など及びもつかぬ貫禄と抱擁力のあるほほえみのひと、時に意表を突いた折句で歌会を盛り上がらせる。ところが、時に可愛い「あをいちゃん」が憑依して、JKも裸足で逃げるまるっこい言説を弄し、読むものを擽りの刑に処す。この歌にも彼の茶目が見え隠れしているようだ。また、歌全体がグラスの中の「氷のふるまい」を描写しているとしたら、かなりの意欲作だ(塩谷)との声もあった。
ストローの袋でお星さまを折る君のペディキュアが夜を祓う  戎居莉恵
結句の「夜を祓う」から敷衍して「お星さまを折る」が「五芒星を祈る」とも見えてくる(雨宮)可愛いだけではない「魔法」のちからがここにはちかちかと働いているようだ。ストローの袋に式神を招じて闇夜の邪気を祓う(黒路)のだろうか、キッチュなものの積み重ねが「祓う」につながることにじーんとする(とみいえ)という意見にぼくも賛成だ。題詠「顔」でも「味噌パンのふちが好きだと言い合ったシモキタの顔があした消える」と下北沢の名店消滅への「挽歌」に青春のリグレットを重ね詠んでいる、その調べをたいそう切なく思ったものだ。
ぼくの腕やさしくなでて顔のないすずなすずしろ狂ってゆくの  新井蜜
「すずなすずしろ」の語感が圧倒的に愉しい(雀來豆)一首。浦島太郎では「鯛や鮃の舞い踊り」は白身の高級魚→すべすべと白肌のさるべき女性(にょしょう)を連想させるが、この「大根と蕪」の大地母神的な存在の接近にはたしかにひとを狂気に引き寄せる磁場を感じる。瀬戸夏子らのアバンギャルドに競うような、意欲的な実験作も数多く発表されている新井氏だが、本作ではおかしな言い方だが、頭だけでひねったものではない「地に足の着いた狂気」に惹かれてしまう。「正体のないものに撫でられるのが心地よい、狂の世界」(河野)、「撫でる感覚、顔のないことが狂気につながる」(とみいえ)と圧倒的な触感に巻きこまれて顔のない白のなかへ、むしろ喜々として埋没していくような感じ。

ぼくだけの太陽のプールでしばし泳げば時間まで溶けてゆく  雨宮司
世界に取り残されたような感じ、永遠とも思える夏の怠惰なひととき(黒路)を「ぼくだけの太陽のプール」一語から感じられるひともいるだろう。一方で字足らずが韻律に乗っていないこと等リズムの問題について指摘もあったが、それが「退嬰的な夏の印象」の一助となっていることも確かだ。「時間まで溶けていく」からぼくはダリ的な記憶の液化をイメージした。題詠「顔のない背中が俺に告げているあの寡黙なる男の過去を」など剛直に心情を吐露するハードボイルドな雨宮氏の、時折見せる詩情は美しい。
コルセットはリリカじゃなくて僕のもの 星の吐息に甘い疼痛  杉田抱僕
なんというか、かばん関西の森のをちこちに吹きかわすヘルニアンの角笛の多さによろこんでいいものかどうか…みなさん、やっておられるのだなあと感慨を禁じ得ない。ちなみにぼくは「疼痛」なる語は発症前まで抽象的な「とーつー」という音でしかなかったが、へルニア国の住人に登記されて以来、もっとも憎むべき漢字となった。特に「疼」の一字、こいつは許せねえ!まさしく足先だけ真冬のようだ。もっとも、痛みと通院に疲れ切って倒錯(土井)するほどやわな歌人もここにはいないであろうが。
石を蹴る終点の無い美しき夏とゲームに飽きてくるまで  雀來豆
かつてオンライン歌会に出された「窓のない廃駅に棲むわたしと鹿と」連作?を読んで以来、ぼくは雀來豆氏の大ファンである。本作では、美しい夏の「あたらしいかたち」を提示した(杉田)という意見から、ボードレールの「秋の歌」を思い浮かべられた方(佐藤)などもいた半面、「ゲーム」「美しき夏」という抽象語が土台もなくふらふらと立っていて確たるイメージがない、構成に破綻がある等の指摘もあった。だがぼくにはそんな抽象性のゆらぎこそが氏の得難い味わいと思えるのだ。「石を蹴る」というアナログな遊びと「ゲーム」のデジタル要素の並置や、初句は倒置?とも思わせる構成にも読ませるものがある。
プレミアムフライデーなるポスターに「殺せんせー」が紛れ梅雨明け  有田里絵
プレフラのうさんくささ(ふらみ)と、あの黄色い丸顔のスマイルバッジはまことにつきづきしい。思惑のあるものほど屈託のない笑顔をみせてくる。映画館でたしかこのキャラクターが教室の生徒たちを藁の犬のようにほふる様がCGでどぎつく描かれていたように記憶する。結句の梅雨空はさしずめ血潮したたる久作の空であろう。ときに人心をえぐる有田氏の詩歌の刃(やいば)は本作同様、題詠の「紅色の朝顔だけが咲いている女の敵は女とばかり」にも横溢している。ずらりと歯牙のならんだ花弁をふりみだして相食む花弁、ピンクフロイドの実写+アニメーション映画「The wall」では男女の相克を花の争いに見せていたが、この歌では同性だけに凄絶さが一段上だ。どこか百閒文学にも繋がるようだ。 
夏空のいのちにあらできしきしと歯車歯車俺の歯車  佐藤元紀
夏空のいのち、ではない「俺の歯車」。大自然の摂理という巨きな車輪からはずれたニンゲンの卑小な、不自然なロボット的規則性の、千篇一律の繰り返し。それでも「かなりつらいけど、前に進んでる」(ふらみ)と前向きささえ伝わるのはこの歌のリズムのよさ故であろう。俳人ならば「こきこきこき」と缶詰でもきりたくなる風情だ。とはいえ「熱い日中に大汗ぬぐってアスファルトの町中を彷徨」し、或いは「青ざめた顔に冷たい汗を流して徹夜」など等…自然なリズムからは永遠に見放されて不条理な日々の雑事に耐える「俺」は又なんとも頼もしく見えてこないだろうか?
浅夢にうすだいだいをただよわせ浴衣ほのかに西瓜の匂い  河野瑤
ぼくは見慣れない初句「浅夢」を「あさきゆめ(見し)」と読み下してみた。「色は匂へど」いろは歌の趣旨が浮き出てくるように思えたからだ。井上陽水「少年時代」さながらの下句に「きゅんとしました」(とみいえ)等高評価も多かった。西瓜の匂いに漂う稚気と、ひと肌の熱がほのかに匂いたつ艶やかさとともに夏の風情をきれいに三十一文字に封じた一首だと思う。一方で「うすだいだい」という語句は、「肌色」が人種差別的なので昨今そのかわりによく使われている色の名前だ(塩月)という穿った視点からの評もあり、経済状況を反映したビジネスマン詠なども得意とされる河野氏のクリティックな一面を、このロマンティックな小品のなかにも見出そう としているようだ。
逆上がり出来なかったと言えぬまま酒宴は終わるみな立ち上がる  ふらみらり
小学生のころ、ぼくは逆上がりが出来なかった。それが親父に知れると早速特訓だ、というのでぼくは夕暮れの校庭に連れて行かれた。さあ、離すぞ、と父親が言う。もう何度その言葉を背に聞いただろう。次第に怒気を含んで重くなる男の声にぼくの指たちはますます竦んだ。だめだよ、と宣言すると、だめじゃない、と背を支えていた手を離された。プロレスのパイルドライバーという技のように、ぼくは頭部から垂直落下した。だからぼくはこの歌を読んで河野氏のように「みなと違うことが言い出せない、同調圧力の歌だ」などと穿ったことは言えない、ただただパイルドライバーは痛い技だ、としか言えない。「どうでもいいことにずっとひっかかってるひと」(有田)、つまりは「中二病」の歌と読んでもいいのかもしれない。
ランプレセプタクル輪つか作るとき束の間君が見せる輝き  黒路よしひろ
RCサクセションに「俺は電気」という元気な歌があって「ピカッと光ってピカッと消えろ!」と仲井戸麗一がシャウトしていた頃を、この歌はなんだか思い出させてくれた。検索で「電工図」というものを見るとのたくったような配線図の中で太陽のようにくっきりと描かれたⓇがすなわち件のものである。どういうものかは、よくわからない。ランプ、なのだから光るのかな程度である。でもそれでいい。かような特殊用語を読み手に委ねる恍惚と不安を、或いは作者は馥郁と味わっているのだとも思われるので…ともあれ雀來豆氏の言う通り、ここには「言葉が内包するイメージの凄み」がたしかに感じられる。

僕たちの残り時間を確かめるみたいにほうれん草を切る音  土井礼一郎
ポエジーの質の高さでは関西歌会随一だろう。土井氏の作風はゼログラヴィティな想像の浮遊感が持ち味だ。ただ、この歌では、多くの評者がほうれん草を切る音を「ザクザク」とイメージしていたが果たしてそうであろうか、この歌の五分後の世界におひたしが白い小皿に楚々とならぶ情景を思ったぼくは、当然ほうれん草は生ではなくて煮られているものと思って「ぽくぽく、ぽくぽくぽく」と想像した。そのほうが残り時間を刻む音の選びとしてより相応しくはないだろうか?ううむ…ほうれん草を切ったことがないのがばれてしまったか?そして又ぼくたちの「残り時間」はあとどれくらい僅かなのだろうか、或いはまだまだ続くものか?ぼくは「愛し合っているから時を惜しむのだ」と解釈してみたが、果たして皆さんはどう読まれるだろう。
最後に、自由詠を出詠されなかったとみいえ氏の題詠を載せ、報告を終わりとしたい。
頬骨の奥に蛾を飼う隣人を恨み疲れて一日が過ぐ  とみいえひろこ
                         (足田久夢/記)


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by kaban-west | 2017-08-01 14:52 | 歌会報告


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