かばん関西歌会

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2017年 09月 01日

2017年8月enoco歌会記

かばん関西 八月enoco【えのこ】歌会記
             
[日時]平成二十九年八月二十七日(日曜日)午後一時半から五時まで
[場所]大阪府立江之子島文化芸術創造センターenoco Room6
[参加者]雨宮司、新井蜜(塔)、有田里絵、泳二(ゲスト)、黒路よしひろ(ゲスト)、雀來豆(未来)、十谷あとり(日月)、杉田抱僕(ゲスト)、福島直広、ふらみらり(詠草・選歌のみ参加)

残暑厳しき折、おなじみのenoco会場に九名が集まりました。前半は題詠に基づく歌会、後半は最近読んだ歌集の中から気になる作品の紹介・発表を行いました。
事前に進行役の十谷さんから兼題「花」が発表され、十首が集まりました。暑さに負けず短歌の花を咲かせましょうという十谷さんのメッセージに対して集まった歌を、レジュメの掲載順に紹介します。

向日葵が夏の日射しをてらてらと種いっぱいに溜めこんでいく   雨宮司
一読して情景をイメージしにくいところはないものの、「てらてらと」が何にかかるのかはっきりしないという指摘がありました。有田は語感から液体や滴るものを想像し、日射し(のジリジリした感じ)と種(に溜まっていく蜂蜜のような栄養)との両方に掛かると読みました。

路地をゆく青いペディキュアそはそはと朝顔の花の萎れる午後に  新井蜜
「そはそはと」という擬音に意識が集中する歌で、どことなく急いでいる、そわそわしていると受け止められました。また、「ペディキュア」で作中主体が膝から下あたりを見ているとわかり、「萎れる」で時間帯も伝わってきます。花火大会に出かける浴衣の女性、スカートとサンダルの女性、どちらでも当てはまります。路地・青・朝顔の組み合わせに全員が夏らしさを感じました。「ペディキュアが青なのは男性から見てどうですか?」という十谷さんの質問に対して、「夏ならではの色」「(少し艶かしいイメージ」との声がありました。当日私のペディキュアは水色だったので、スニーカーを履いていて良かったと密かに思いました。

まるであの戦争みたいです八月の庭先にヒアフギが揺れ   黒路よしひろ
ヒアフギを知らなくても、「戦争」と「八月」のフレーズが揃えば、火(戦火)を煽るイメージが沸いてきました。「あの戦争」と書いてはいても、作者及び作中主体が実際に戦争を体験しているとは思わない人が多数でした。「みたいです」という口語から、遠くのことを示していると感じられるからでしょうか。「知らないものを短歌の中に持ってくる方が賢く見える、いい歌のように受け止められやすい気がする」と、後から作者のコメントがありました。知らなさが出すぎていては短歌として未完成でしょうけれど、この歌は大方の日本人に不穏な空気を伝えることができそうであるという意味で、成功しているように思います。

ルドゥーテの薔薇を写せばゆびさきに残されてゆく透明の棘    雀來豆
固有名詞のお洒落感に引き寄せられました。何人かがその場で検索していました。ルドューテは十八世紀のベルギー人画家(男性)で、細密な植物画、特に薔薇の絵が有名だそうです。「透明の」刺がどうやって指先に残されるのかを想像しつつ、全体的な美しさを評価する意見がありました。丁寧に模写するうちに指に刺が刺さる気がしてくるほど精密な絵であるという予想が、シンプルで受け入れやすかったです。

鬼灯を染めあげようと太陽が瞼をひらく地蔵盆なり       有田里絵
「瞼をひらく」が独特なので、この句がもったいないという声が複数ありました。地蔵盆で最後をしめたことによって鬼灯と太陽の歌だったのが地蔵盆の歌に変わってしまったのではないかという指摘がある一方、夕方以降の時間帯を示してくれるから地蔵盆でも良いのではと述べる声もありました。太陽はもともと開いているものだから、さらに開くという意味だろうか、という疑問が出ました。曖昧さが表面化してしまいましたね。

隣には隣の流儀 庭に咲く花はどれもわたしを見ない     ふらみらり
ばっさりと切るような潔い詠み方です。後半の字足らずが気にならないほどの勢いがあると評価する声がありました。盛り上がったのは、この花がどこに咲く花か?という点です。一・隣の庭、二・自宅の庭、三・どこかの花ではなく一般的な花、・・・と、主な意見はこの三つでした。しかし今考えると、そもそも花でさえないかもしれないのです。(それぞれがまったくジャンルの違う相容れない存在として、”隣・花・わたし”という三つのモチーフを登場させている可能性もあるのでは。ねじれの位置にある物事は世の中にたくさんあるけれど、私は私である。そういう強さを感じました。

溶けながら月を見上げる実験塔ベランダに咲くにがごりの花   福島直広
今回の最高得点歌です。擬人化された実験塔がどことなくユーモラスで、「にがごり」という名前もおもしろいと評価されました。素直に読めば、作者がベランダにいて塔を見ているという位置関係を想像しますが、塔のベランダなのかもしれないですね。「ゴーヤーの形は月に似ていなくもないし、ゴーヤーの花を小さな星に見立てることもできそうだ」という読みも出ました。そのうち男性陣はビールへの連想に傾いていらっしゃいました。

君はサケ食べるのが下手ボロボロと皿にこぼれる紅の花びら   杉田抱僕
「こぼしたものを花びらに見たてるのは子育て経験からすると難しいかもしれない()笑」という声もありましたが、微笑ましさや瑞々しさを感じる人が多かった歌です。君との関係がどれくらいの深さを持っているのかを示唆してくれる生活感があります。生活感という点では「サケではなく鮭にしてほしい」という意見が出たのは自然でしたね。夜行バス利用で参加してくださった杉田さん、いつも新鮮な風を運んでくだ本さってありがとうございます。

壁一面咲く朝顔の声援を受けて我らがちーちゃんよ行け       泳二
幼い子、小学校低学年くらいの子どもへのエール。作者は「ちーちゃん」の背中を黙って見守っているのですが、朝顔も黙って見ているというところが良いと評価されました。結句まですんなりとひっかかりなく読める心地よいリズムもあります。自分で気がついていないだけで、誰かが見てくれているかもしれないですよね。元気出して行きましょう。
取り毀されてゆくのは記憶 丁字路の塀をこぼるる凌霄の花  十谷あとり
「凌霄【のうぜん】」はノウゼンカズラのことだそうです。どことなく不安な気持ちを感じ、静かに迫ってくる歌です。「取り毀【こわ】す」は「とりこぼす」とも読むことができ、自分の意図に反して壊されるイメージがつきまといます。蔓を伸ばすノウゼンカズラの赤と橙色が頭の中を這うようにめぐり、記憶を留めることができなくなる。具体的にどんな記憶なのかはわかりませんが、太陽に灼かれながら佇む姿を想像します。漢字や植物の豊かな知識に感心するばかりです。
詠草については以上です。

次に、歌会後半で紹介された歌集を挙げておきます。「作者名、著作、出版社、刊行年・・・発表者の名前」の要領で記載しています。
野口あや子 『かなしき玩具譚』 短歌研究社、二〇一五年・・・雨宮
真中朋久 『雨裂』 雁書館、二〇〇一年十月・・・有田
大滝和子 『祭りの言葉』  『短歌研究』二〇一五年十一月号より・・・雀來豆
吉田隼人 『忘却のための試論』 書肆侃侃房、二〇一五年十二月・・・新井
石川美南『裏島』本阿弥書店、二〇一一年・・・杉田
しんくわ『しんくわ』書肆侃侃房、二〇一六年・・・杉田
廣西昌也 『歌集 神倉【かみくら】』書肆侃侃房、二〇一二年・・・泳二
山下一路『スーパーアメフラシ』青磁社、二〇一七年四月・・・十谷

最後のフリートークでは”短歌の私性”に関する問いかけが出ました。「読者になるとき、作品だけではなく、その作者がどんな人なのか気になってしまうのはなぜだと思いますか?」というものです。時間ぎりぎりまで展開がありましたが簡単には終わりそうもなく、再度取り上げたい問いかけでした。次回は十一月下旬に開催予定です。
(有田里絵/記)


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by kaban-west | 2017-09-01 14:54 | 歌会報告


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