かばん関西歌会

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2017年 02月 02日

12月歌会記

かばん関西 2016年12月歌会 報告

【参加者】雨宮司・新井蜜(かばん/塔)・有田里絵・岩崎陸(ゲスト)・うにがわえりも(選歌のみ)・泳二(ゲスト)・戎居莉恵・ガク・黒路よしひろ(ゲスト)・佐藤元紀(詠草のみ)・塩谷風月(未來/レ・パピエ・シアンⅡ)・雀來豆(未來)・杉田抱僕(ゲスト)・橘さやか・足田久夢(玲瓏/講読)・東湖悠(ゲスト)・とみいえひろこ(選歌・コメントのみ)・東こころ(かばん/未來)・ふらみらり・ミカヅキカゲリ(計二十名)


※所属表記なしは「かばん」正会員。

新暦十二月、雨宮司さんから出された題は「走」で読み込み指定。最初から定義が明確なこの文字をいかに用ゐるかが難しいなか、出詠一覧は題をモティフとして活用し、独自の世界を展開させる歌が並んだ観があつた。

以下、兼題の部の歌を取り上げる。

駅前の横断歩道を小走りにわたる頭に銀杏を乗せて         泳二

走っても走ってもまだ遥か先わたしの虹のうまれるところ    橘さやか

波寄せるテトラポットをぞみぞみと走る鉄【くろがね】色の軍勢  雨宮司

走ることやめてしまった星たちがしずかにひかりはじめる深夜  東こころ

冷え切った甘いコーヒー飲み干して咳払いして助走終了    ふらみらり

走馬灯編集委員がカットした時間は全部君がもらって      杉田抱僕

矢印の迷走してゐるからだから夜會のなかへ放ちやる鳩     足田久夢

物語が踏み固められてきた道にうずくまる少女よ 走れ、走れ   雀來豆

一首目は「小走り」「銀杏」の組合せとそれを頭に乗せてといふ状況に、可愛らしさ、軽快感、ほほゑましさ、と高評価が集まつた。銀杏は葉なのか実なのか、主体は人か動物か、といつたところにそれぞれの読みが広がつてゐたがそれがどうあらうとこの高評価は的を射てゐるだらう。二首目は下句の鑑賞が眼目となりやはり高評価の一首。甘さやひつかかりが指摘されつつも、虹の根つこを追ふといふよくあるモティフを上二句と結句で詠ひあげたところが成功してゐる。虹に未来を憧憬する読みも出された。三首目は「ぞみぞみ」のオノマトペが見事。下句をフナムシと捉へた読みが多かつた。上句と下句の照応が印象的な四首目は星の擬人化への感嘆と一首の美しさが話題になつた。結句の「助走終了」への評価が分かれた五首目は、仕事に向けての朝の助走で色々考へて時間が経過したのか、何かの告白までの長い時間なのか、意味を詰め込みすぎたり立ち止まる印象を与へたりしてゐないか、珈琲への各自の思ひ入れも込めながら歌会ならではの様々な読みが披露される。「走馬燈編集委員」の表現の面白さが指摘された六首目には、その表現で戸惑ふ意見や、結句に愛や甘やかさを見る一方で言ひさしの弱さも指摘された。七首目、イメージの強い言葉の多用や旧漢字の使用から生まれる世界をどう読むか、魂の解放かいや自由とは限らないのか、言葉が印象深い分各自の読みが錯綜してゐた。結句、兼題の繰り返しが直球で読み手に訴へてくる八首目は、上句の閉塞感や陋習から自由になれ、といふ読みと、見え透いたところに「走れ」は言へない、少女は蹲る役割だから「走れ」と言はれても困るのでは、という読みに分かれた。

月光を背に受け走る犬とわれの行く手に青く光るみづうみ     新井蜜

逆立ちで走って逃げるアスファルト その手触りを忘れないでね  岩崎陸

我が父は変態なゆえ職場まで二時間をかけ走るアラ還   ミカヅキカゲリ

走れない私の脚への考察を140字で誰かお願い          東湖 悠

常套的、だから何だ、読者に何を届けたいのか、といふ印象の上で、それでも気になる一首として点が入つた一首目は「犬」がポイントとなつてゐた。結句の「みづうみ」に向かつてゆく流れも評価された。上句のシュールを受容できるか否かが焦点になつた二首目は、その滑稽さに留まるか、下句の願ひの切実を読み取るかで評価が分かれる。「変態」といふ断定の清しさと同時に「これが変態か」といふところが話題にされた三首目は、腰以降の行動をどう読むかなのだらう。阿羅漢、嵐寛寿郞なども飛び出して面白いコメントが並んだ。「140字」にツイッターを込めたところに評が集中した四首目は、「走れない私の脚」といふところとそのツイッターとの関連をどうとるかがポイントとなつた。猶、オンライン歌会の特性上詠草は横書きで記されるため、この評では「140字」を所謂「横中縦」のかたちで記してあることを書き添へておく。

太陽に向かってふたり走り出すラストはいつもどんでん返し     ガク

走為上。贈りし言葉を取り違え明るい朝に飛び降りた友     塩谷風月

ヘルニアの走る痛みに堪へ兼ねて妻呼ぶ鹿の鳴きし吾が声  黒路よしひろ

全力で走っているよトラックの外で声援送るカズヤも      有田里絵

この道をどこへ走って行くのだろう こんなとこまで来てしまったか

  戎居莉恵

肩口を走るおまへの唇に爆ぜやまぬ俺のなづき狐火       佐藤元紀

 結句が気になるといふ評が賛否共に集まつた一首目は、映画やテレビドラマの最終回やオチを想起させつつその結句をどう読み取るかで常套的かさうでないかが決まる。余談だかスペクトラムのノベルティーアルバムにある曲で「夕日に向かつて走り続けろ~」といふ曲がこれを書いてゐる頭の中に響いてゐる。兵法三十六計最後の計、例の「三十六計逃げるに如かず」を置いた初句が注目された二首目は、友の自殺の歌なのに漂ふ明るさに関心が集まつた。切実さや恐ろしさが「明るい朝」に見られるといふことも指摘された。三首目はとにかく痛い、痛い、しかし申し訳ないが笑つてしまふ。それをもたらしてゐるのが文法的に難点はあるものの読み手の想像力で読みを補へる下句である。ことに四句目の切実感が却つて痛みの孤独感を際立たせてゐるやうだ。四首目は過不足なく傷もない表現を買ふ評の一方で歌の景がぼんやりしてゐるとの評も出された。否定的な評では「カズヤ」が誰かといふ点もあり、「タッチ」までが引かれてくる一幕もあつた。五首目、上句と下句の照応をどう読むかで様々に評が展開された。繋がりが分からない、得てしてそんなもの、ひねりがほしい、さうして中也の「頑是ない歌」の一節、武田鉄矢も歌にした「思へば遠く来たもんだ」まで出されて賑やかなコメントの場となつた。

 歌会の面白さは、それぞれの読みが提示されることで、自分の知らなかつた世界に出会つたり、自作がおもひがけない読み方をされる場にでくはすところにある。更に、分からない読みには説明を求めたり、反論がある場合には根拠と共にそれを提示し、さういふ状況を作り乍ら読みを深め、歌への認識を新たにできる。かう書くと当り前のことだと言はれるかもしれないが、この原点を意識しておかないと、憖に会が進んでしまつたり一方的な賞賛や否定の場に成り下つたりしてしまふ。オンライン歌会は確かに議論を交すかたちにはなつてゐないが、それぞれの評が自分の読みを批評してくることで、自分の力がついてくる実感を得られるのが何よりもありがたい。そのやうな場にゐられることを感謝しつつ、更なる参加者を求めたくおもふ。

 最後に、自由詠での高得点歌を挙げておく。

吾輩はポケモンであるもう誰も訪ふことのなき公園にゐる   泳二

川と海、城跡そして飛行機の離陸する音、生まれた町の  橘さやか

名前とは現世に焼き付けられた印されど消えゆくどら焼きの印   東湖 悠

(佐藤元紀/記)

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# by kaban-west | 2017-02-02 20:13 | 歌会報告
2016年 12月 12日

11月歌会報告

◆◆かばん関西11月オンライン歌会 参加者一覧◆◆

(敬称略、五十音順、所属表記なしは「かばん」所属)<参加者>雨宮司、新井蜜(かばん/塔)、岩崎陸(ゲスト)、うにがわえりも、戎居莉恵、黒路よしひろ(ゲスト)、佐藤元紀、雀來豆(未来)、杉田抱僕(ゲスト)、橘さやか(ゲスト)、土井礼一郎、とみいえひろこ、東こころ(かばん/未来)、福島直広、ふらみらり、ミカヅキカゲリ

 今回の進行係新井氏より提示された題は「罪」。罪ってよくわかんない、という人も、心当たりのある人も、それぞれ思うところの罪を詠んだ歌を紹介したい。

 肯定も否定もせずに罪なひとわたしはもはや待ってられない  橘さやか
 何もしないし何も言わないというのはいらいらさせられる。しびれを切らして飛び出すの をじっと待っているのだとしたら、確信犯ですね。
 生命に感情に罪あることを無数に走る手のひらの線  とみいえひろこ
 手のひらのしわを見て生きている自分を実感し、生きている限り罪は必ずつきまとうという哲学を感じる。いわゆる性悪説よりも、生きているから人間らしく罪とも無縁にならないという生命賛歌に感じられた。
 方舟が飛び立ってゆくこの夜にぼくらの罪を残したままで  雀來豆
 ノアの方舟がモチーフだろうか。だが、方舟が飛ぶというのはSFのようでライトな読後感があり、聖書のような説教臭さがない。少年達が他愛のないいたずらの後、笑いあいながら光る船に乗り込む様子を思い浮かべた。
 あのひとのこいびとだとは知っていた罪をかさねるた めの抱擁  東こころ
 なぜ罪をかさねようとするのか。背徳感に酔いしれるため?よくないとわかっていることを繰り返す甘い後ろめたさが上手く表れていると思うので、それを強調して、二人の関係性はうやむやにした方が、わたしはもっと惹かれたと思う。 
 罪の子とわたしを呼んだあのひとよいまやわたしはあなたをゆるす ミカヅキカゲリ
 どうしてゆるすのか。「いまや」というかぎりはかつてはゆるせなかったのだろう。その葛藤こそがこの歌の核ではないかと思う。ただ作者が一番主張したいのが「いまはゆるす」ということだろうかと思うと作者の意図とわたしの読みとは違うかもしれない。
 舌先をちらりと見せてカタバミの花なめむとするリタの貞操  新井蜜
 リタのモデルについていろんな意見が出て楽しかった。NHKの朝ドラ「マッサン」の主人公のモデルになった女性、あるいはギリシャ神話、猫という意見もあった。カタバミを舐めようとするぐらいだから、猫なのだろう。わたしははじめは多情なフラメンコダンサーを思い浮かべた。エキゾチックなリタの貞操について気を揉んでいるのかと。
 罪業に気付いた日から銃を捨て緑の指を皆と育む  雨宮司
 緑の指とは、児童文学「みどりのゆび」から、植物を育てる能力をさす言葉として使われているのだろうというコメントが多数あった。争いごとの愚かさに気づいて自然を大切にする理想郷を謳っている。児童文学からモチーフを得ているからか 、押しつけがましさがない。
 過った心の色のそのままに空いっぱいに描けクレヨン  岩崎陸
 間違っているかもしれないなんて考えずに自信をもって突き進めということだろうか。
描く人が大人なら、汚い部分もある心をきれいな色でごまかすな、ととれるし、子どもなら常識や既成概念にとらわれるなという応援歌に読める。過ちも大きく包み込んで背中を押してくれる歌。
 罪知らぬ無垢なる瞳みひらいて謝る人をじっと見ている  ふらみらり
 目をみひらいているのは、謝る人なのか、それを見ている方なのかという疑問がたくさん出た。また、「瞳をみひらく」「じっと見ている」と似た言葉が続くという指摘もあった。作っているときには気がつかない曖昧さに反省しきりで す。
 打ちよせるどちらの罪が大きいか言わない彼と察しない我  戎居莉恵
 二人の視線が合わない緊迫した雰囲気が伝わるが、歌の詠み手「我」が「察しない」と言ってしまうので、つかみ所がない。双方の腹の中をお互いにわかっているけど、わからないふりをしていることをもっと匂わせたほうが、より緊張感のある歌になると思う。
 我が愆【とが】は木立瑠璃草に縛られて迷羊【ストレイシープ】の行方も知らず  佐藤元紀
 なぜ木立瑠璃草を選んだのか、気になって検索すると、花言葉は誠実、とのこと。
誠実であらんとするばかりに身動きかとれなくなって、心が迷うことさえゆるされない悲鳴だろうか。どの言葉も主張が強く、濃い世界観がある。
 罪を得て縊り 殺められし皇子のことなど思ふカフェのテラスに  黒路よしひろ
 カフェでくつろぐのどかな時間と、血なまぐさい歴史上の出来事の対比がとてもいい。想像力をフルに活動させて思い描く妄想の後に、ふっと目の前の現実にもどると、生きているなあ、と実感すること、ありませんか。自分の存在を手づかみで確かめるような。
 もう君がいない世界をまだ君がいると思って生きてしまった  杉田抱僕
 大切な人を失ったことを受け止めきれず、あるいは意識の外に追いやって、日常生活を続けている後ろめたさ。若者らしく、正直で清廉な印象を受ける。
 カツ丼を食べたばかりに泣けてきて西日に染まる灰色の窓  福島直広
 罪という言葉からカツ丼を思いつくのは福島氏ぐらいではないか。たぶん誰も経験したことがないだろうけど、誰もがはっきりこの情景(今や都市伝説となっているが)を思い浮かべることができる。今回の歌会では、罪ってどういうことだろう、自分にとっての罪とは、と、身近に引き寄せたり、掘り下げたり、いろんな角度から考察した歌が集まった
が、ベタな書き割り(それでいて鮮明)のような世界観に着地させた手法は独自だろう。
 今回は得票数がばらけてどの歌にも平均して票が入った。罪のとらえ方は人それぞれちがうということだろうか。

 最後に自由詠の高得点歌を紹介したい。
テーブルに誰かが置いたテキーラのさよならを言いだしそうな壜  雀來豆
すれちがう人たち みんな花火見にゆく夕刻に買うエノキ茸  土井礼一郎
本を読む男と女からっぽのコーヒーカップに虫がとまった  橘さやか
カーテンが陽に透け世界赤くなり戦いの朝わたしはわたし  ミカヅキカゲリ

                               (記/ふらみらり)

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# by kaban-west | 2016-12-12 11:06 | 歌会報告
2016年 12月 11日

秋だ!鶴見緑地吟行歌会記

かばん関西 秋だ!鶴見緑地吟行歌会記

【日時】平成二十八年十月二日(日曜日)午後一時から五時まで
【会場】大阪市立鶴見区民センター 集会室三
【参加者】(敬称略、五十音順、表記なしは「かばん」所属) 雨宮司 泳二(ゲスト) 黒路よしひろ(ゲスト) 福島直広 ふらみらり

十月二日の日曜日に大阪市の鶴見緑地で秋の吟行歌会を開催しました。当日の天気が心配だったんですが、誰かの行いが良かったのかどうにか晴れとなり、蒸し暑いながらもまずまずの吟行日和となりました。
午前中は集合時間等は決めずに、各自が自由に吟行する形でゆるゆるっとスタートする感じでした。
自由参加のオプションツアーとして十一時に咲くやこの花館(植物園)前に集合して館内を吟行という企画もあり雨宮さん、黒路さん、福島の3人が参加しました。これもまた集まったという感じでもなく皆好き勝手に入場料を払って館内を散策していました。
一人二首ずつ提出という事で、皆の詠草を紹介します。

餌【え】を漁【あさ】る鶴見緑地の駅前に秋を装ふデニムの少女 黒路よしひろ

松林檎パインアップルのことだよパインは食べる松は食べない 福島直広

いつもとは違う一人の公園でもういちど聴く SEKAI NO OWARI 泳二

高山の花の女王は青いケシ秋の晴れ間の空の青さだ 雨宮司

すれちがうひとたちみんな和田さんに見えるけれどもどこかちがう ふらみらり

捨てられぬビールの缶を持ったまま鶴見緑地公園を後にする 泳二

瑞士【スイス】から臨む鶴見の大池の水面が割れてパイルダーオン 福島直広

咲くやこの花の館に咲く花の我は見惚れり花より少女 黒路よしひろ

この中に高橋さんはいませんかフリマで表札売っている声 ふらみらり

湿布薬の匂いの花をつけるというモクキリンにはあいにく会えず 雨宮司

歌会終了後は雑談タイムとなりました。
咲くやこの花館内で、ガイドをしていたお姉さんにずっとついて行ってモクキリンの話を聞いていた雨宮さん、鶴見緑地に来る途中で体調不良となり駅のトイレに半時間程こもっていた黒路さん、酒気帯び吟行疑惑を持たれつつ飲んではないと繰り返し弁明していた泳二さん、今回唯一の女性で会場に華を添えてくれたふらみさんの「和田さん」の歌では結句の字足らずで議論が白熱しました。
今回は少人数でしたが、その分全員がそれぞれの歌にコメントをして、濃い内容の歌会となりました、そして「恒例の?」短歌の質問コーナーでは所属の話とか歌集出版の話等を聞くことができました。
終了後、区民センターで雨宮さんとふらみさんとはお別れして、泳二さん、黒路さん、福島の三人で近くのBIGBOYでハンバーグを食べてお開きとなりました。
黒路さん体調悪いて言ってたのによく食べてたなあ。
                         記:福島直広
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# by kaban-west | 2016-12-11 11:09 | 歌会報告
2016年 10月 15日

9月歌会報告

かばん関西二〇一六年九月オンライン歌会

【参加者】(敬称略、五十音順、表記なしは「かばん」所属) 雨宮司、新井蜜(かばん/塔)、岩井曜、岩崎陸(ゲスト)、うにがわえりも(選のみ参加)、泳二(ゲスト)、戎居莉恵、黒路よしひろ(ゲスト)、佐藤元紀、塩谷風月(未来/レ・パピエシアンⅡ)、雀來豆(未来)、杉田抱僕(ゲスト)、足田久夢(玲瓏/購読)、とみいえひろこ、福島直広、ふらみらり、ミカヅキカゲリ

残暑厳しい九月初め、今回の進行役の塩谷さんから出された兼題は「駅」。以下正選・逆選の集まった歌についてまとめてみたい。
「じゃあね」したホーム歩けばひりひりと飛び散りそうになる日々を越え  戎居莉恵
初句「じゃあね」のニュアンスについて解釈が大いに割れた原因は、結句の「越え」という言い差しに求められるだろう。
「ひりひりする日々」を既に越えてきた、と回想に取れば、冒頭の「じゃあね」は、胸に痛みを残しながらも、ある程度の距離感・客観性をもって振り返るニュアンスにとれるが、多くの評では「越えていきたい」「越えていくのか、どうか」という未然の願望ととらえた方が多く、その場合「じゃあね」は、表向きのそっけない口ぶりとは裏腹に切実さ、深刻さのニュアンスが含まれる。今まさに「ひりひりと」した「危険な関係を、とりあえずホームに見送ることで一段落させたのだが・・・」(佐藤)というこの「焦燥感」(雀來)。
もちろん「越え」が言い切られていない限りどちらの解釈も可能なのだが、より切迫した「現在進行形」の読みに多くを引き寄せたのは、ある程度「リズムを損ねる」(雀來)ことを犠牲にしてでも初句助詞抜き・下句句跨りにしたことで、逆に「心身のリズムも乱されている」「こころがアンバランスに揺れている」感じとそぐわしい、と感じた評者が多かったためであろう。
駅までの何もできなかったことをおもう道のりポケットは森  とみいえひろこ
文の成分として「駅までの」と「なにもできなかったことをおもう」が並列で、ともに「道のり」にかかる連体修飾句、という、ふつうの文章では「読みづらい」の一語で朱を入れられてしまうような、この不思議な語順の魅力に、最初は気づかなかった。なんだ「駅までの道のりにまた後悔の森森とたつ外套のなか」とか、なんとかするっと書けばいいのに。と思って看過してしまった。
評には多く「ポケットは森」という比喩の良し悪しについて言葉が尽くされていた。「人の手の加えられたものを林、加えられていない自然のままを森、というらしい。作中主体の、ポケットに手を突っ込んで歩く駅までの時間は、まさに人の進入を許さない森だった」(黒路)というハードボイルドな解釈に一読しびれてしまったし、「森という言葉に、後悔の念が伝わってくる」(ふらみ)という感性豊かな評も心に残る。たしかに「森」の鬱蒼とした感じ、うっかり踏み入れられない領域、という感じは、こころの襞の鬱屈に相関し合うと思う。
ただ、森=心の「鬱屈」「後悔」「不可侵」を思わせる何よりの装置は、四句目までの、ドイツ哲学の文体を思わせる修飾関係の意図的な「読みづらさ」にあったようにも思う。「なにもできなかったことをおもう」と韻律の枠をおおきくはみだしても終わらない修飾句の長さが、決して終わることのない作中主体の懊悩・逡巡・停滞等とまさしく対応している、とやっと読めてきた。「文語(で短歌を書くこと)は軽く、口語は重い、ということもある」とかつて語った土岐正浩の言葉※などを思い出しながら。
駅前のだんご屋「武平作」バスの窓から見てた(好きだったきみ)  新井蜜
窓から見えていたのは「きみ」なのか或いは「きみ」を回想させる「だんご屋」が窓外に過ぎていったのか好きだったのは武平作のだんごか武平作の店員だった「きみ」なのか・・・あえて状況・主体・「きみ」との関係などの情報量を絞って、読解のあいまいさそのものを味わって欲しい趣向、という評が多かった。「だんご屋武平作(ぶへいさく:実在の栃木駅前の店舗)」を手柄と読むか(黒路)、説明過多と取るか(泳二)、音の無骨さが作中主体を思わせる(塩谷)と踏み込むか、句跨りも含めて強い印象が残る一首。
駅。私が生まれた家 廃線の跡にわたしと弟の部屋  雀來豆
自由詠の 私は窓がひとつ欲しい 廃線を横切る鹿ときみを見るため と合わせて、極めて自由な作風で好悪合わせて評が集中した二首である。因みに「上句自由律型」の歌(下句で韻律にまとめていくスタイル)は最近はよくみられるようだ。
はしなくも「白黒の絵本」(ふらみ)と喝破されたように、この一首(二首)には淡い、うすぐらいファンタシー(ディストピア)の趣がある。現実的に読もうとすれば???が孑孑のように湧くだけだろう。
遺棄された街の廃駅に住み込んだ一家の成長の物語。それを後年訪れた「私」が、「わたしと弟」の部屋から回想をはじめる。「廃駅の駅舎で一家が暮らし始めて二年目のことだった。その頃「子供部屋」には窓がなかった。」そんな、分厚い書物の出だしが自分には自然に浮かんでくる。SFを溺愛する自分には「待ちかねた一首」。勿論、描かれているままに「4枚の写真が壁に貼られている」(塩谷)ととっても極めて詩的喚起力が高い作品だ。
「出発できない葛藤」(佐藤)「もう生まれた家にも帰れない」等「廃線」の象徴性に読解のヒントを求めたひとも多かった。自由詠「廃線」も正選票を集めた一首だったが、選びながら解釈に思い悩む評も多く、その「解らないけれど惹かれる」感が素晴らしい。
木漏れ日の無人駅は夏の底コーラの缶を捨てたら行こう  杉田抱僕
「夏の底」という比喩に参ってしまった評者が多い。缶コーラの赤と木漏れ日の緑、「無人駅」→思えば遠くに来たものだ、ここが夏の「底」だろう、という青春の高揚感。二句目の字足らずでさえ味方につけて若さ溢れる一首となった。一気に「底」まで飲み尽くす炭酸の、喉を灼く感じが夏日の峻烈さとも呼応しているし、コーラの甘味が木陰のやさしさに、甘やかな孤独感とも呼応するのだろう。CM的な構図の「まとまり過ぎ」も、たしかに感じはするが・・・それも含めての「若さ」の表現かもしれない。因みに日本コカコーラCMの初期コンセプトが、あらたな「青春」群像の提案だった。
鴻池放出鴫野住道読めない人と結婚したい  泳二
いくつかの質問に答えていくと「あなたの理想のお相手は」と相性診断の結果が示される、そんなアプリにあふれた昨今を穿つ皮肉の効いた歌だと思った。みな「俺全部読めたから結婚できないね」「ひとつしか読めなかったけど・・・「読めない人」を求める作中主体はかなり性格悪そうだから、深く考えないことにする」等それぞれに読解を楽しんでいる。しかし「恋したい、ではなく結婚したい。今の自分の生活に閉塞感を持っている」(塩谷)という指摘も、意外に正鵠を射抜いているかもしれない。
秋の日に小菊抱えて各停でガタンゴトンと揺れる両膝  ミカヅキカゲリ
「小菊」「秋の日」からお彼岸で故郷の墓参に帰る途中、という情景であろう、つつましやかにうつむき加減で電車に揺られている作中主体の目線。それが膝から離れない、というより俯いたままでいることに亡くなったものとの距離も測れるだろう。その佇まいに「清廉」(とみいえ)と評したコメントも印象に強い。「ガタンゴトン」というオノマトペにも「ふつうのひと」感が表現されていると見た。オノマトペに凝るだけで「普通じゃない」感満載で、歌人≒作中主体の個性が出てしまう。盆踊りに舞うひとの笠のように、死者への追悼には無個性が「顔のみえないこと」が相応しい。それが死者そのものとも重なって見えてくるのだ、と小泉八雲は綴っている 。
たしかに「駅」そのものは歌っていないが、ひと駅ひと駅各停の点呼を聞きながら、目的の駅が近づくにつれ生活圏の記憶の濃度も増していく、そのグラデーションが感じられる。歌に描かなくても「駅」の名は各々の心に、それぞれ親しい駅名で響いてくる。
「兼題の漢字そのものを読み込まなくていい」というかばん関西歌会のルールを十分に楽しんだ佳作、として記憶したい。
自由詠では上記「私は 窓が・・・」の他に
この町で生きていこうと決めた日の荒野のような部屋に飾る絵  岩井曜
ビル街を無地の服着てのろのろとわたしは道に迷った蟻だ  ふらみらり
いま君が開いたものがドアである証にここに花を置きます  泳二

が得票の多かった一首で
(血液も寂しそうだね)流れゆく群衆のなか立てば天啓  杉田抱僕
を「テロリストの心境」(岩井)と読解したコメントも印象に残る。

                    ※「神楽岡歌会 100回記念誌」99頁より
                               (担当 足田久夢)

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# by kaban-west | 2016-10-15 17:04 | 歌会報告
2016年 10月 07日

8月歌会報告

かばん関西二〇一六年八月オンライン歌会

【参加者】(敬称略、五十音順、表記なしは「かばん」所属)
雨宮司、新井蜜(かばん/塔)、岩崎陸(ゲスト)、うにがわえりも、泳二(ゲスト)、小野田光、黒路よしひろ(ゲスト)、佐藤元紀、雀來豆(未来)、杉田抱僕(ゲスト)、足田久夢(玲瓏/購読)、土井礼一郎、とみいえひろこ、ふらみらり、ミカヅキカゲリ

 日本全国が猛暑を覚悟していた八月初め、今回の進行役の岩崎陸さんから出された兼題 は「針」。歌会後、岩崎さんは「痛み、それもきらきらしたもの」を求めていた、と吐露されていた。針という言葉から私たちが感じたものは何だったのか。各コメントの後に、それぞれの針を明記してみた。
 レコードに刻み込まれたオーボエの息継ぎまでを針は拾いぬ  泳二
レコード針という細くするどいもので、聞き逃してしまうような微細なものを拾い上げる緊張感がいい。そして、そこまで集中して音楽に聴き入る作者の姿も、歌の通底音になっている。(レコード針)
 小径ゆくみたいにランウェイをあるく針の視線を刺した衣裳で  小野田光
 針のような視線さえ衣装にして、小径を歩くような軽い足取りで歩くモデルの強さを感じる。モデルの軽快さと息をつめたような見る側の鋭い視線の対比が面白い。(針の視線)
 嘘発見器の針のごと妻のゆびさき振れたのち枝豆をとり  土井礼一郎
 内容が面白くて物語性がある。指先、枝豆など、映像が目に浮かんではらはらさせる。最後を「とり」と連用形にすることで、物語の続きを連想させるという指摘もあ った。(嘘発見器の針)
 奥つもの名張壮士【なばりをとこ】の釣り針に餌もつけずに釣られし我は  黒路よしひろ
 〈わが背子は何処行くらむ奥つもの〉(萬葉)からの本歌取り(足田氏より)とのこと。餌などなくても恋に落ちてしまうこともある。黒路氏はときどき女になりきった歌を詠まれるが、どうしてわかるのー、とのけぞるぐらい女性の心情をすくい取るのが上手だと思う。恋する心に男女の区別はないってことか。(釣り針)
 ししゅう針ぷつりと刺せばあふれ出す音律のなか糸をくぐらす  ふらみらり
 針をさした穴から音律が溢れるというイメージに高評価を得た。くぐらせるものは糸でなくてもよいのでは、という意見もあった。(ししゅう針)
 病まずには生きてゆけな い注射器に血は赤黒くほとばしりつつ  佐藤元紀
 注射器の中の赤黒い血に自分の生命力を見いだしている。病をもっていることも、生命の原動力になっているのではという、一読すると負のイメージなのに読み込むと生命賛歌になるとは面白い。(注射器)
 待ちおれば古いミシンの針のごと慌たただだし行き交う人の  雀來豆
「慌たただだし」という表現でミシンの動き(雑踏の動き)を上手く表せているという意見と、技巧的に感じる、という見方もあった。人混みの行き交う足下の様子の中に、ミシンの騒々しい無機質で非情な感じを見いだす感性がすばらしい。(ミシン針)
 釣り針は祈りに似てるピノキオは鯨のなかでよく眠れたの?  杉田抱僕
 つり針そのものが祈る人の形に似 ているのだろうか。釣りをするときも祈りに似た状態になると思う。そういう釣り=祈りの中でピノキオが浮かんできたのかもしれない。釣り針、鯨、ピノキオの連想だろうか。ピノキオのインパクトが強すぎる感もある。(釣り針)
 つらぬける針やわらかに内奧【ないおう】を抉りくるゆえ知らんぷりする  ミカヅキカゲリ
 針でえぐった人物がいるのか、流れ弾のようにたまたま突き刺さり、えぐられたのかまでは表されていないが、前半の痛々しい内容から、「知らんぷり」という強がっているけどどこかかわいい表現への飛躍が魅力ある。(つらぬいてきた針)
 結婚を促すようにとんとんと眠る恋人に毫針【ごうしん】をうつ  うにがわえりも
 本当に鍼灸師が恋人に針を打ったのか、 何かの比喩だろうか。恋人が男なのか女なのか、また作者の性別次第で、読み手は怖いと感じたり、共感したりほのぼのしたりで、視点によって味わいがくるくる変わる。(毫針)
 それからはほんとうのことだけを言う胸に小さな針をしまって  とみいえひろこ
 針は何の比喩だろうか。本当のことを言うときにちくりとさすための針をしまっておくのか嘘をつくことで自分を守っていたもののことかという鋭い読みもあった。観念的な歌であるため、解釈の範囲が広い。(胸の裡の小さな針)
 針めどに糸を通してやることが子どもの役目だつたあの頃   新井蜜
 目が悪くなってきた肉親のために糸を通してあげるという、誰もが一度は経験のあるようななつかしさ。今は針を持つ人が減り、 また糸通し器のような便利なグッズも売られているので、よけいに戻ってこない過去を感じる。(縫い針)
 だますなら釣針を口に掛けるまで水の中から引き上げるまで  雨宮司
 塚本邦雄の〔馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ〕を連想された人が複数いて、作者も意識していたと後述されていた。最後までだましきったのなら、それは見事と言えるし、だまされた方も救いがある。(釣り針)
 行く君がアンダースローで投げ上げた針よ雨中にはればれと散れ   岩崎陸
 アンダースローという言葉に魅せられた人が多数。わたしは「はればれと散れ」という表現も気持ち良く感じた。別れの時のさびしさとすがすがしさが同居している感情が、動きのみで表されている 。雨の中で光る針が美しい。(別れ)
 いつも思うことだか、題詠は、一つの言葉から出てくるイメージが、各人全然違うことが楽しい。

最後に高得点だった自由詠を紹介する。

わたくしが生きるためには手助けが不可欠なゆえ火星を想う  ミカヅキカゲリ
猛暑日のおまへが欲しい百本の青唐辛子に穴あけてゐる  佐藤元紀
ひき際が綺麗でしたね花束はどこかで燃えて香りをはなつ  小野田光
                                (記/ふらみらり)

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# by kaban-west | 2016-10-07 09:22 | 歌会報告